マクロ的な考え

20040110.jpgパーラー喫茶「ドレミ」
最近なんとなく思うのが、今までの自分の考えとか目標というのが、実は小さい範囲でのことだったのではないかと思うようになった。
それ自体は悪くはないと思うんだけど、もっと大きなレイヤーでのものの考え方が必要なのかなと思った。
たとえばPhotoshopという画像編集ソフトがあるが、これを例にあげてみる。
#(1)Photoshopの使い方を覚える
というのは表現の本質ではないと考えている。それはオペレートであって、表現という活動ではないと思う。そこで授業では
#(2)自分の表現の幅を広げるためにPhotoshopを活用する方法。および疑問などを自分で調べ解決する方法
について教えている。これもまんざら間違いではないし、現在の現実的な状況から考えてみると、妥協ポイントに限りなく近いのかと思う。
しかし、研究者として考えるならば、その上のレイヤーにある
#(3)Photoshopに足りないものは何か、そもそもコンピュータで画像を編集することのメリットの原点を見つめなおし、それを拡張することを再度考えてみる、もしくはツールや環境を開発したりすること
という部分に重きを置いてみたい。実際はなかなかそこまでは授業ではできないのだが、こういうことを考えていったほうが面白いと思う。
(この上にさらに「コンピュータで表現することそのもの」についての考え事があるが、具象的なレベルではないので、ここでは省きます)
これはインターネットやコンピュータを「ビジネスツール」や「経済発展の特効薬」と過信していることへのアンチテーゼにも思える。
コンピュータは「ソフトを使うこと」がメインになってきているのかもしれない。確かに多くの人に表現の可能性や利便性などを提供したことは否めないだろう。
しかし、手放しで賞賛するわけにはいかない。大昔にBASICとかでプログラムを作って動かしていくという、コンピュータを人間が操作していくというスタイルが、一部の専門家以外にとっては風前の灯のようになってきている。
本当はコンピュータはもっと可能性のあるものであり、ブラックボックスにして歴史の流れの中で密かに葬ってしまうには、あまりにも勿体無い。
一度勇気を持って立ち止まり、コンピュータやそれらの巻き込まれている環境などを見つめなおし、ダメなものはダメと勇気を持って言うことが必要なのだろう。
LEGOマインドストームしかり、アラン・ケイのスクイーズしかり、そういう「環境」を作り出すことを考えていくことが今面白いのではないかと個人的には思っている。
……なんて堅いことを書いてしまったが、明治から昭和にかけての日本文学界の○○派みたいな、表現運動というのもこういう感じだったのだろうかと考えてみると、そこはかとなく楽しい。
■閑話休題
本当は今日の日記はもっとおちゃらけたものにするはずだった。「夕飯の鍋のカワハギがぷりぷりしていておいしかった」とかそういう他愛のない話だったのに。
今日の写真はおととしの写真(よく考えると変な文章)。通天閣の付近で撮った喫茶店の写真。こういう手書きのロゴが失われてくる街というのは、「ビタミン剤だけで栄養を摂っている食事」のように味気ない気がする。僕はそういうのはちょっと苦手だ。

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